top of page

エピクロス名言集

エピクロス(前341-前270)は古代ギリシャの哲学者。アテナイに学園を開き、霊魂をも物体とする唯物論的な実践哲学を説いた。感覚を知識の唯一の源泉かつ善悪の標識とする快楽主義を説いたが、そこで説かれる快は静的なものであり、苦しみのない心の平安のことであった。

 


われわれが存するかぎり、死は現に存せず、死が現に存するときには、もはやわれわれは存しない。
『エピクロス―教説と手紙』


あたかも、食事に、いたずらにただ、量の多いのを選ばず、口にいれて最も快いものを選ぶように、知者は、時間についても、最も長いことを楽しむのではなく、最も快い時間を楽しむ。
『エピクロス―教説と手紙』



正しい人は、最も平静な心境にある、これに反し、不正な人は極度の動揺に満ちている。

『エピクロス―教説と手紙』

正義は、それ自体で存する或るものではない。それはむしろ、いつどんな場所でにせよ、人間の相互的な交通のさいに、互に加害したり加害されたりしないことにかんして結ばれる一種の契約である。

『エピクロス―教説と手紙』

不正は、それ自体では悪ではない。むしろそれは、そうした行為を処罰する任にある人々によって発覚されはしないかという気がかりから生じる恐怖の結果として、悪なのである。

『エピクロス―教説と手紙』

われわれの生まれたのは、ただ一度きりで、二度と生まれることはできない。これきりで、もはや永遠に存しないものと定められている。ところが、君は、明日の〈主人〉でさえないのに、喜ばしいことをあとまわしにしている。人生は延引によって空費され、われわれはみな、ひとりひとり、忙殺のうちに死んでゆくのに。

『エピクロス―教説と手紙』

なんびとも、悪を見て、あえてこれを選ぶわけではない。むしろ、それをより大きな悪と比べて善であるかのように思い、これに惑わされて、悪を追い求めるのである。

『エピクロス―教説と手紙』

過ぎた日の善いものごとを忘れ去れば、その人は、まさにその日に、老いぼれる。

『エピクロス―教説と手紙』

その他の仕事の場合には、それが完了したときに、はじめて成果が得られるのであるが、哲学研究の場合には、その喜ばしさは、認識の進むのといっしょに進む。というのは、学び知ってのちに楽しさがあるのではなくて、学び知ってゆくことと楽しさとが同時的だから。

『エピクロス―教説と手紙』

欠乏しているものを欲するあまり、現にあるものを台無しにしてはならない。現にあるものも、われわれの願い求めているものであることを、考慮せねばならない。

エピクロス『エピクロス―教説と手紙』

最大の善については、それが生じるのと、われわれがそれを楽しむのとは、同時である。

『エピクロス―教説と手紙』

われわれは、過ぎ去ったことどもに感謝し、すでに起ったことを起らない昔に返すことはできないということを認識して、ふりかかる禍いを癒すべきであろう。

『エピクロス―教説と手紙』

飽くことを知らないのは、多くの人々の言うように、胃袋なのではなくて、かえって、胃袋についての誤った臆見、すなわち、胃袋はこれを満たすのに際限なく多くの量を必要とするという誤った臆見である。

『エピクロス―教説と手紙』

十分にあってもわずかしかないと思う人にとっては、なにものも十分でない。

『エピクロス―教説と手紙』

すべての欲望にたいし、次の質問を提起するべきである、すなわち、その欲望によって求められている目的がもし達成されたならば、どういうことがわたしに起るであろうか、また、もし達成されなかったならば、どういうことが起るであろうかと。

『エピクロス―教説と手紙』

議論のさいには、議論で負けた者の方が、新たに何かを学び知るだけ、得るところが多い。

『エピクロス―教説と手紙』

「長い人生の終りを見よ」というは、過去の善きことどもにたいする忘恩の言葉である。

『エピクロス―教説と手紙』

自己充足の最大の果実は自由である。

『エピクロス―教説と手紙』

自己を保全するために第一に尽すべきおのが分は、自分の青春を大切に守り、荒れ狂う欲望によってすべてを台無しにするものを警戒することである。

『エピクロス―教説と手紙』

最大の富を所有しても、多くの人々から尊敬と注目を受けても、その他、無際限な多くの原因からどのような結果が生じても、そんなものは、霊魂の動揺を解消しはしないし、値打ちのある喜びを生み出しもしない。

エピクロス『エピクロス―教説と手紙』

美とか、諸徳とかその他この種のものは、もしそれらが快を与えるならば、尊重さるべきである。だが、もし快を与えないならば、それらにわかれを告ぐべきである。

『エピクロス―教説と手紙』

もし神が人間の祈りをそのまま聴き届けていたならば、人間はすべて、とっくの昔に亡びていたであろう。というのは、人間はたえず、たがいに、多くのむごいことを神に祈ってきているから。

『エピクロス―教説と手紙』

至福な「自然」に感謝しよう、彼女は、必要なものを容易に獲得しうるものとし、獲得しにくいものを不必要なものとしたがゆえに。

『エピクロス―教説と手紙』

わずかなもので十分と思わない人、すくなくもこのような人には、十分なものは存しない。

『エピクロス―教説と手紙』

多くの人々は、たまたま富が手に入ると、もろもろの悪からの脱却をでなく、かえって、より大きな悪への転向を見いだす。

『エピクロス―教説と手紙』

ひとは、恐怖のために、あるいは際限のないむなしい欲望のために、不幸になる。だが、もしこれらに手綱をつけるならば、祝福された思考を自分自身にかちとることができる。

『エピクロス―教説と手紙』

いやしい霊魂は、思いがけない幸運によってふくれあがり、不運によってうちのめされる。

『エピクロス―教説と手紙』

明日を最も必要としない者が、最も快く明日に立ち向かう。

『エピクロス―教説と手紙』

正義の最大の果実は、心境の平静である。

『エピクロス―教説と手紙』

幸福と祝福は、財産がたくさんあるとか、地位が高いとか、何か権勢だの権力だのがあるとか、こんなことに属するのではなくて、悩みのないこと、感情の穏やかなこと、自然にかなった限度を定める霊魂の状態、こうしたことに属するのである。

『エピクロス―教説と手紙』

bottom of page