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芥川龍之介名言集

芥川龍之介(1892-1927)は小説家。東京帝国大学英文科卒。在学中に発表した短編『鼻』が夏目漱石の激賞をうける。細部まで整然と構成された文体・作品によって新技巧派と呼ばれた。鋭い神経と強い自意識の作家で、晩年は虚無的心情を深め、体調も優れず、「ぼんやりとした不安」の中、睡眠薬自殺を遂げた。

 

 

妄(みだり)に道徳に反するものは経済の念に乏しいものである。妄に道徳に屈するものは臆病ものか怠けものである。
芥川龍之介『侏儒の言葉・西方の人』


強者は道徳を蹂躙するであろう。弱者は又道徳に愛撫されるであろう。道徳の迫害を受けるものは常に強弱の中間者である。
芥川龍之介『侏儒の言葉・西方の人』


良心は道徳を造るかも知れぬ。しかし道徳は未だ嘗(かつ)て、良心の良の字も造ったことはない。
芥川龍之介『侏儒の言葉・西方の人』


賢人とは畢竟(ひっきょう)荊棘の路にも、薔薇の花を咲かせるもののことである。
芥川龍之介『侏儒の言葉・西方の人』


古典の作者の幸福なる所以は兎に角彼等の死んでいることである。我我の――或は諸君の幸福なる所以も兎に角彼等の死んでいることである。
芥川龍之介『侏儒の言葉・西方の人』


もし遊泳を学ばないものに泳げと命ずるものがあれば、何人も無理だと思うであろう。もし又ランニングを学ばないものに駆けろと命ずるものがあれば、やはり理不尽だと思わざるを得まい。しかし我我は生まれた時から、こう云う莫迦げた命令を負わされているのも同じことである。
芥川龍之介『侏儒の言葉・西方の人』


人生は一箱のマッチに似ている。重大に扱うのは莫迦々々しい。重大に扱わなければ危険である。
芥川龍之介『侏儒の言葉・西方の人』


人生は落丁の多い書物に似ている。一部を成すとは称し難い。しかし兎に角一部を成している。
芥川龍之介『侏儒の言葉・西方の人』


古来政治的天才とは民衆の意志を彼自身の意志とするもののように思われていた。が、これは正反対であろう。寧ろ政治的天才とは彼自身の意志を民衆の意志とするもののことを云うのである。
芥川龍之介『侏儒の言葉・西方の人』


輿論は常に私刑であり、私刑は又常に娯楽である。たといピストルを用うる代りに新聞の記事を用いたとしても。
芥川龍之介『侏儒の言葉・西方の人』


敵意は寒気と選ぶ所はない。適度に感ずる時は爽快であり、且又健康を保つ上には何びとにも絶対に必要である。
芥川龍之介『侏儒の言葉・西方の人』


完全なるユウトピアの生まれない所以は大体下の通りである。――人間性そのものを変えないとすれば、完全なるユウトピアの生まれる筈はない。人間性そのものを変えるとすれば、完全なるユウトピアと思ったものも忽ち又不完全に感ぜられてしまう。
芥川龍之介『侏儒の言葉・西方の人』


奴隷廃止と云うことは唯奴隷たる自意識を廃止すると云うことである。
芥川龍之介『侏儒の言葉・西方の人』


暴君を暴君と呼ぶことは危険だったのに違いない。が、今日は暴君以外に奴隷を奴隷と呼ぶこともやはり甚だ危険である。
芥川龍之介『侏儒の言葉・西方の人』


あらゆる神の属性中、最も神の為に同情するのは神には自殺の出来ないことである。
芥川龍之介『侏儒の言葉・西方の人』


民衆の愚を発見するのは必ずしも誇るに足ることではない。が、我我自身も亦民衆であることを発見するのは兎も角も誇るに足ることである。
芥川龍之介『侏儒の言葉・西方の人』


子供に対する母親の愛は最も利己心のない愛である。が、利己心のない愛は必ずしも子供の養育に最も適したものではない。この愛の子供に与える影響は――少くとも影響の大半は暴君にするか、弱者にするかである。
芥川龍之介『侏儒の言葉・西方の人』


古来如何に大勢の親はこう言う言葉を繰り返したであろう。――「わたしは畢竟失敗者だった。しかしこの子だけは成功させなければならぬ。」
芥川龍之介『侏儒の言葉・西方の人』


経験ばかりにたよるのは消化力を考えずに食物ばかりにたよるものである。同時に又経験を徒らにしない能力ばかりにたよるのもやはり食物を考えずに消化力ばかりにたよるものである。
芥川龍之介『侏儒の言葉・西方の人』


好人物は何よりも先に天上の神に似たものである。第一に歓喜を語るのに好い。第二に不平を訴えるのに好い。第三に――いてもいないでも好い。
芥川龍之介『侏儒の言葉・西方の人』


民衆は人格や事業の偉大に籠絡されることを愛するものである。が、偉大に直面することは有史以来愛したことはない。
芥川龍之介『侏儒の言葉・西方の人』


自由は山巓(さんてん)の空気に似ている。どちらも弱い者には堪えることは出来ない。
芥川龍之介『侏儒の言葉・西方の人』


文章の中にある言葉は辞書の中にある時よりも美しさを加えていなければならぬ。
芥川龍之介『侏儒の言葉・西方の人』


最も困難な芸術は自由に人生を送ることである。尤も「自由に」と云う意味は必ずしも厚顔にと云う意味ではない。
芥川龍之介『侏儒の言葉・西方の人』


宿命は後悔の子かも知れない。――或は後悔は宿命の子かも知れない。
芥川龍之介『侏儒の言葉・西方の人』


阿呆はいつも彼以外の人人を悉く阿呆と考えている。
芥川龍之介『侏儒の言葉・西方の人』


恋愛は唯性慾の詩的表現を受けたものである。少くとも詩的表現を受けない性慾は恋愛と呼ぶに価いしない。
芥川龍之介『侏儒の言葉・西方の人』


万人に共通した唯一の感情は死に対する恐怖である。道徳的に自殺の不評判であるのは必ずしも偶然ではないかも知れない。
芥川龍之介『侏儒の言葉・西方の人』


革命の上に革命を加えよ。然らば我等は今日よりも合理的に娑婆苦を嘗むることを得べし。
芥川龍之介『侏儒の言葉・西方の人』


人間的な、余りに人間的なものは大抵は確かに動物的である。
芥川龍之介『侏儒の言葉・西方の人』


彼は悪党になることは出来ても、阿呆になることは出来ないと信じていた。が、何年かたって見ると、少しも悪党になれなかったばかりか、いつも唯阿呆に終始していた。
芥川龍之介『侏儒の言葉・西方の人』


我我の最も誇りたいのは我我の持っていないものだけである。実例。――Tは独逸語に堪能だった。が、彼の机上にあるのはいつも英語の本ばかりだった。
芥川龍之介『侏儒の言葉・西方の人』


道徳的並びに法律的範囲に於ける冒険的行為、――罪は畢竟こう云うことである。従って又どう云う罪も伝奇的色彩を帯びないことはない。
芥川龍之介『侏儒の言葉・西方の人』


革命に革命を重ねたとしても、我我人間の生活は「選ばれたる少数」を除きさえすれば、いつも暗澹としている筈である。しかも「選ばれたる少数」とは「阿呆と悪党と」の異名に過ぎない。
芥川龍之介『侏儒の言葉・西方の人』


 

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