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ニーチェ名言集

ニーチェ(1844-1900)はドイツの哲学者。24歳でバーゼル大学古典文献学教授となったが、心身の不調から辞任し、以後著作に専念した。1889年トリノの路上で狂気の発作を起こし、正気に戻ることなく生涯を終えた。超人、永劫回帰、運命愛など独特の概念も有名。

 

 

生きようとする最強で最高の意志は、生存のための闘争などという惨めな形でなど現われるものではない。それはむしろ積極的に戦おうとする意志、権力と優位への意志として現われるのだ。
工藤綏夫『ニーチェ・人と思想』


幽霊を追払う勇気は、おのれ自身のために愉快な妖精どもをつくりだす。
ニーチェ『ツァラトゥストラはこう言った(上)』


たとえあなたがたの思想が敗北しても、あなたがたの思想の誠実が勝利を得なければならない。
ニーチェ『ツァラトゥストラはこう言った(上)』


他人へのわれわれの信仰は、われわれが自分の内部に、何を信じたいと思っているかを暴露する。
ニーチェ『ツァラトゥストラはこう言った(上)』


どうして奔流が、ついには海への道を見いださずにすむだろう。
ニーチェ『ツァラトゥストラはこう言った(上)』


意志することは、解放する、自由にする。これが意志と自由についての真の教えである。
ニーチェ『ツァラトゥストラはこう言った(上)』


良心にさいなまれていると、やがて他人をもさいなむ癖がつく。
ニーチェ『ツァラトゥストラはこう言った(上)』


人は自分の感情を抑えなければならない。感情に流されれば、やがて頭脳も流出してしまう。
ニーチェ『ツァラトゥストラはこう言った(上)』



精神とはみずからの生命に切りこむ生命である。それはみずからの苦悩によって、みずからの知を増すのだ。
ニーチェ『ツァラトゥストラはこう言った(上)』


およそ激しい意志だけでは獲得できないものが、美である。
ニーチェ『ツァラトゥストラはこう言った(上)』


『罰』とは、すなわち復讐が自称するところのものである。復讐は仮名を使って、良心のやましさをごまかすのだ。
ニーチェ『ツァラトゥストラはこう言った(上)』


自分自身を意識しないことこそ、真の徳であるという。虚栄的な人間はたしかにおのれの謙遜を意識していない者だ。
ニーチェ『ツァラトゥストラはこう言った(上)』


嵐をもたらすのは、もっとも静かな言葉。鳩の足で歩いてくる思想こそ、世界をみちびくもの。
ニーチェ『ツァラトゥストラはこう言った(上)』


もはや愛することができないときは、――しずかに通りすぎることだ。
ニーチェ『ツァラトゥストラはこう言った(下)』


不敵な冒険、長期にわたる不信、残酷な否定、はげしい嫌悪、いのちに刃向かうもの、――こうしたものが集まることは、なんとまれなことか。だが、真理が生みだされるのは――こうした種子によってである。
ニーチェ『ツァラトゥストラはこう言った(下)』


あなたがたに栄誉を与えるのは、「どこから来たか」ではなくて、「どこへ行くか」なのだ。
ニーチェ『ツァラトゥストラはこう言った(下)』


人間社会。これはひとつの試みである。わたしはそう教える、――ひとつの長い時間をかけた探求。すなわち命令者を探し求めることである。
ニーチェ『ツァラトゥストラはこう言った(下)』


人間を見舞うあらゆる運命のなかでも、地上で最も強大の権力をにぎっている者が、第一等の人間でないということぐらい、むごたらしい不運はない。
ニーチェ『ツァラトゥストラはこう言った(下)』



あなたが偉大さを求めたことは、りっぱなことだ。だが、それはまたあなたの正体をもあかす。つまりあなたは偉大ではないからだ。
ニーチェ『ツァラトゥストラはこう言った(下)』



一切を見た神、人間そのものをも見た神。このような神は死なねばならなかった。人間は、そのような目撃者が生きていることに堪えることができない。
ニーチェ『ツァラトゥストラはこう言った(下)』



どこへ行くかを知っている者だけが、どれが良い風向きなのか、自分にとっての順風なのかを理解する。
ニーチェ『ツァラトゥストラはこう言った(下)』



あきらめるよりも、むしろ絶望せよ。
ニーチェ『ツァラトゥストラはこう言った(下)』



あなたがたが大きなことに失敗したとしても、だからといってあなたがた自身が――失敗だというわけだろうか。
ニーチェ『ツァラトゥストラはこう言った(下)』


哲学はいつも世界を自らの姿に擬して創造する。
ニーチェ『善悪の彼岸』


一つの思想というものは、「それ」が欲するときにやって来るもので、「われ」が欲するときにやって来るのではない。従って、主語「われ」が述語「思う」の条件である、と言うのは事態の一つの偽造である。
ニーチェ『善悪の彼岸』



憤怒した者ほど嘘つきは誰もいないのだ。
ニーチェ『善悪の彼岸』


高級な種類の人間には栄養や清涼剤として役立つものも、それとは非常に違った劣等な種類の人間には殆んど毒に近い。
ニーチェ『善悪の彼岸』


幸福や有徳は何の論拠にもならない。しかし、思慮深い人々の側でさえも、不幸にするとか邪悪にするということも同様に反対論拠にならないことを忘れたがる。
ニーチェ『善悪の彼岸』


或る精神の強さを測るものは、その精神がなおどれだけ《真理》に堪えられたかということ、更に明瞭に言えば、どの程度まで真理を稀薄にし、隠蔽し、甘美にし、鈍麻し、偽造せずにはいられなかったかということである。
ニーチェ『善悪の彼岸』


高い感覚の強さではなく、むしろその持続が高い人間を作る。
ニーチェ『善悪の彼岸』



自分が愛されていることを知りながら、しかも自分では愛することをしないような者は、その魂の沈殿物を暴露する。――その最も底の滓までが浮き上がって来る。
ニーチェ『善悪の彼岸』


大海のうちで渇きのために死ぬのは怖るべきことである。ところで、諸君は一体、真理がもはや決して――渇きを癒やすことがないほどに、諸君の真理を塩からくしなければならないのか。
ニーチェ『善悪の彼岸』



誰か或る者について理解し直さなければならないとき、われわれは、それによって彼がわれわれに与える不快を無情にも彼の所為にする。
ニーチェ『善悪の彼岸』


怪物と戦う者は、自分もそのため怪物とならないように用心するがよい。そして、君が長く深淵を覗き込むならば、深淵もまた君を覗き込む。
ニーチェ『善悪の彼岸』


或る時代が悪と感じるものは、通常、かつて善と感じられたものの時節はずれの余韻である。――旧い理想の隔世遺伝。
ニーチェ『善悪の彼岸』


愛は愛する者の高い隠された特性を――その稀有なもの、例外的なものを明るみに出す。そのかぎりにおいて、愛は彼の通例の姿を煙に巻きがちである。
ニーチェ『善悪の彼岸』


哲学者は明日と明後日の必然的な人間としていつも彼の今日と矛盾する状態にあったし、またあらざるをえなかった。彼の敵はいつの場合にも今日の理想であった。
ニーチェ『善悪の彼岸』


「権利の平等」は余りにも容易に「無権利の平等」に変化しうる。
ニーチェ『善悪の彼岸』


残忍とは他人の苦悩を眺める際に生じるものだとのみ教えなければならなかった以前の愚鈍な心理学を追い払わなければならない。自分自身の苦悩、自分自らを苦しめるということにも夥しい、有り余るほどの享楽があるのだ。
ニーチェ『善悪の彼岸』


男における恐怖を起こさせるものが、もっと明確に言えば、男のうちの男がもはや欲せられず、育成されなくなるとき、女が敢えてのさばり出るのは、当然至極のことだし、また十分に理解できることだ。理解しにくいのは、まさにそのことによって――女が堕落するということである。
ニーチェ『善悪の彼岸』


知識と能力との間の裂け目は、恐らく人々が考えるより大きなものであり、不気味なものである。大規模な能力をもつもの、創造する者は、事によると無知な者でなければならないであろう。
ニーチェ『善悪の彼岸』


「搾取」とは頽廃した社会や不完全で原始的な社会に属するものではない。それは有機的な根本機能として、生あるものの本質に属する。
ニーチェ『善悪の彼岸』


高貴な人間にとって恐らく理解することが最も困難な事柄に属するものは虚栄である。
ニーチェ『善悪の彼岸』



いわゆる教養人、「近代的理念」の信奉者たちにおいて何よりも嘔吐を催させるものは、恐らく彼らの羞恥心の欠如、彼らがすべてのものに触れ、舐め、擦る眼と手の呑気な厚かましさであろう。
ニーチェ『善悪の彼岸』


尊敬されるような「偉人」というのは、後から作り出されたけちな拙劣な虚構である。
ニーチェ『善悪の彼岸』


愛は一切をなしうる、と女は信じたがる。――それは女の本来の迷信である。
ニーチェ『善悪の彼岸』


深い苦悩を味わった人間は――人間がどれほど深く苦悩しうるかということが殆んどその人間の位階秩序を規定する――誰しも精神的な誇負と嘔吐感とをもっている。
ニーチェ『善悪の彼岸』


高貴であることの徴。――われわれの義務を万人にとっての義務にまで引き下げようなどとは決して考えないこと。
ニーチェ『善悪の彼岸』


天才は恐らく決してそう稀有なものではない。しかし稀有なのは、《カイロス》、すなわち「適切な時を」――自由に左右するために、偶然の額髪を捉えるために、必要とされる五百の手だ。
ニーチェ『善悪の彼岸』


或る人間の高さを見ようと欲しない者は、それだけますます鋭くその人間のもつ下劣な点や前面に現われている点に眼を向ける。――そして、そうすることによって自分自身を暴露する。
ニーチェ『善悪の彼岸』


あらゆる哲学は更に一つの哲学を隠している。あらゆる意見もまた一つの隠れ場であり、あらゆる言葉もまた一つの仮面である。
ニーチェ『善悪の彼岸』



《反感》をもった人間は、正直でもなければ無邪気でもなく、また自分自身に対する誠実さも率直さももたない。
ニーチェ『道徳の系譜』


人間に対する恐怖とともに、われわれは人間に対する愛、人間に対する畏敬、人間に対する希望、否、人間に対する意志をさえ失ってしまった。
ニーチェ『道徳の系譜』



強さに対してそれが強さとして現れないことを要求し、暴圧欲・圧服欲・支配欲・敵対欲・抵抗欲・祝勝欲でないことを要求するのは、弱さに対してそれが弱さとして現れないことを要求するのと全く同様に不合理である。
ニーチェ『道徳の系譜』


主体(通俗的に言えば魂)が今日まで地上において最善の信条であったのは、恐らくこの概念によって、死すべき者の多数に、あらゆる種類の弱者や被圧服者に、弱さそのものを自由と解釈し、彼ら自身の云為を功績と解釈するあの崇高な自己欺瞞を可能にしたからであった。
ニーチェ『道徳の系譜』


健忘がなければ、何の幸福も、何の快活も、何の希望も、何の矜持も、何の現在もありえないだろう。
ニーチェ『道徳の系譜』



苦しむのを見ることは快適である。苦しませることは更に一層快適である――これは一つの冷酷な命題だ。しかも一つの古い、力強い、人間的な、余りに人間的な根本命題だ。
ニーチェ『道徳の系譜』



「天使」になる途中で人間はあのように胃を悪くし、舌に苔を出かしたために、ただに動物の歓びや無邪気さを味わえなくなったばかりか、生そのものをも味気ないものにしてしまった。
ニーチェ『道徳の系譜』


苦しみに対して人を憤激させるのは実は苦しみそのものではなく、むしろ苦しみの無意味さである。
ニーチェ『道徳の系譜』


値を附ける、価値を量る、等価物を案出し、交換する――これらのことは、人間の最も原初的な思惟を先入主として支配しており、従ってある意味では思惟そのものになっている。
ニーチェ『道徳の系譜』


ある事物の発生の原因と、それの終極的効用、それの実際的使用、およびそれの目的体系への編入とは、《天と地ほど》隔絶している。
ニーチェ『道徳の系譜』


一つの「進歩」の量は、そのためにすべてが犠牲にされなければならなかったものの集塊の量によって測定される。
ニーチェ『道徳の系譜』

 


敵意・残忍、迫害や襲撃や変革や破壊の悦び、――これらの本能がすべてその所有者の方へ向きを変えること、これこそ「良心の疚しさ」の起源である。
ニーチェ『道徳の系譜』



諸君は、地上におけるあらゆる理想の樹立がいかに高価についたかを諸君自身に十分に質してみたことがあるか。そのために常にいかに多くの現実が誹謗され、誤認され、いかに多くの虚偽が神聖化され、いかに多くの良心が掻き乱され、いかに多くの「神」がそのたびごとに犠牲にされなければならなかったか。一つの神殿が建立されうるためには、一つの神殿が破壊されなければならない。
ニーチェ『道徳の系譜』

 

 

《倨傲》はわれわれ自身に対するわれわれの態度である。われわれはいかなる動物についても許さないような実験をわれわれ自身について試み、われわれの生きた肉体の内にある魂に物好きにもメスを入れて娯しんでいるからである。

ニーチェ『道徳の系譜』


私はヴィシュヴァーミトラのあの有名な物語を想起する。この王は数千年にわたる苦行の挙句、新しい天界を築こうと企てたほどの権力感と自信とを獲得した。思うに、これこそは地上における最も古く、かつ最も新しい哲学者物語の不気味な象徴である、――かつて「新しい天界」を築いたすべての人々は、それを築くための力をまず各自の地獄の中で見出したのだ。
ニーチェ『道徳の系譜』

 

 

人間が生に対して言う「否」は魔法のように一層優しい「然り」を一杯に持ってくる。破壊の、自己破壊のこの大家が自分自身を傷つける場合にさえも、――後で彼に生きることを強いるのはこの傷そのものなのだ。

ニーチェ『道徳の系譜』



人間に対する恐怖には減少を望んでよいようなものは一つもない。というのは、この恐怖は強者に対して強くなることを強い、場合によっては恐るべきものになることを強いるからだ。――それは健全な型の人間を保持する。
ニーチェ『道徳の系譜』



恐れらるべきもの、他のいかなる宿命にも見られないほど宿命的に働くもの、それは人間に対する恐怖ではなく、むしろ人間に対する大なる吐き気であろう。同じくまた人間に対する大なる同情であろう。もしこの両者がいつか交合するとしたら、必ずや直ちに最も不気味なものが生れるであろう。すなわち、人間の「最後の意志」、無への意志が、ニヒリスムスが生れるであろう。
ニーチェ『道徳の系譜』


人間の大なる危険は病人である。悪人でもなく、「猛獣」でもない。初めから不運な者、虐げられている者、打ち挫かれている者――彼ら最も弱き者どもこそは、最もしばしば人間の足下に坑を掘って生活を覆えし、生に対する、人間に対する、われわれ自身に対するわれわれの信頼に最も危険な害毒と疑惑とを注ぎ込むのである。
ニーチェ『道徳の系譜』


正義を、愛を、智慧を、優越を少なくとも見せびらかすこと――それがこれらの「最下等者ども」の、これらの病人どもの野心なのだ。
ニーチェ『道徳の系譜』


一体いつになったら奴ら(反感をもった人間)は復讐の最後の、最も洗練された、最も崇高な凱歌に到達するのだろうか。疑いもなく、奴ら自身の惨めさを、ありとあらゆるすべての惨めさを幸福な人々の良心のうちへ押し入れることに成功したその時である。
ニーチェ『道徳の系譜』


病人が健康者を病気にすることのないように予防する、――これこそ実に地上における最上の観点でなければなるまい。
ニーチェ『道徳の系譜』



より高きものはより低きものの道具に自らを貶すべきではない。
ニーチェ『道徳の系譜』

 

 

激情によって苦痛を麻痺させようという願望のうちにのみ、《反感》や復讐や、それに類するものの真の生理的原因は見出される。

ニーチェ『道徳の系譜』



「私は苦しんでいる、それは誰かの所為に違いない」――とすべての病める羊は考える。しかし彼の牧者、禁欲主義的僧職者は、彼に向かって言う、「私の羊よ、全くその通りだ! それは誰かの所為に違いない、だがお前自らこそその誰かなのだ、それはお前自らだけの所為なのだ、――お前自らだけの所為でお前はそうなっているのだ!」と…… この言い方は随分と大胆であり、随分と間違っている。しかし、これによって一つの事は達せられている。すなわち、(中略)《反感》の方向が――転換されているのだ。
ニーチェ『道徳の系譜』



病人をある程度まで無害なものにすること、癒しがたい者どもを自滅させること、比較的軽症の患者を峻烈に自己自身に向かわせ、彼らの《反感》に逆説的方向を取らせること、そしてそのようにしてすべての苦しんでいる者の悪しき本能を自己訓練・自己監視・自己克服の目的のために利用し尽くすことがそれ(禁欲主義者の試み)であった。
ニーチェ『道徳の系譜』



人間において「罪悪」ということは何らの事実でもない。むしろ一つの事実の、一つの生理的不調の解釈であるにすぎない。(中略)――従って、誰かが自ら「負い目がある」とか「罪がある」とか感じるという事実は、いまだ決してその感じの正当さを証明するものではない。それは誰かが自ら健康だと感じているからといって、彼が必ずしも健康でないのと同じである。
ニーチェ『道徳の系譜』



「魂の痛み」を仕末することができないということは、大雑把に言えば、魂の所為ではない。むしろ腹の所為だと見る方がもっと本当らしい。強くて出来のよい人間は、硬い食物を嚥下しなければならない時でもその食物を消化すると同じく、自己の体験を(種々の行為・悪行をも含めて)消化する。彼が体験を「仕末できない」とすれば、この消化不良も食物の消化不良と同じく生理的なものだ。――そしてしばしばそれは、実は食物の消化不良の結果の一つであるにすぎない。
ニーチェ『道徳の系譜』


時々地上の定まった幾つかの場所において殆んど必然的に一つの生理的阻害感情が広汎な大衆を支配するようにならざるをえないということは、初めからありそうなことだと見なされうる。しかしこの感情は、生理的知識の欠乏のためにそうしたものとしては意識されないので、従ってその「原因」やその療法もまた。単に心理的・道徳的に求められ試みられうるのみである。――これがすなわち普通に「宗教」と呼ばれているものに対する私の最も一般的な方式である。
ニーチェ『道徳の系譜』



催眠的な無の感情、最深の眠りの安静、一口に言えば――無憂、これこそは苦しんでいる者たちや徹底的に銷沈している者たちから、実に最高の善、価値の中の価値と見られてよいものだ。それは彼らから積極的なものそのものとして感じられなければならない。同じ感情の論理によって、すべての厭世的宗教において無は神と呼ばれている。
ニーチェ『道徳の系譜』


至福をもたらすような強い信仰、それはその信仰の対象に対する一つの疑惑である。
ニーチェ『道徳の系譜』


一切の自然科学は、自然なものであれ、不自然なものであれ――認識の自己批判を私は「不自然なもの」と呼ぶのだが――今日では人間がこれまでもっていた自尊心を奇怪な自惚以外の何ものでもないかの如く人間に棄てさせようと企てている。
ニーチェ『道徳の系譜』



侮蔑する者はいつの場合でもなお尊敬することを忘れなかった者だ。
ニーチェ『道徳の系譜』

 

 

人間の「認識する」すべてのものが人間の願望を満たさず、却ってそれに拮抗し、それを慄え上がらせるというような場合、その責任を「願望」にではなく、むしろ「認識」に求めうるというのは、何という神聖な遁げ道であろう。

ニーチェ『道徳の系譜』



人間は、この最も勇敢で、最も苦しみに慣れた動物は、苦しみそのものを拒否したりはしない。彼はそれを欲する、彼はそれを求めさえもする。もしその意義が、苦しみの目的が彼に示されるとすればだ。
ニーチェ『道徳の系譜』



人間は欲しないよりは、まだしも無を欲する。
ニーチェ『道徳の系譜』

人間はだんだんに、他のどの動物よりも一つだけ余計な存在条件を充足せねばならない一個の空想的動物となった。人間はときどき自分が存在するのは何故だかを知っていると信じなければならない。人間の種族は、生への周期的な信頼をもたずには繁栄できないのだ! 生における理性への信仰なしには!

ニーチェ『悦ばしき知識』

宇宙が一つの目標を目指して組み立てられたものでないことは、たしかだ。われわれがそれに「機械」という言葉をつかうのは、宇宙にあまりにも高い栄誉を付与するというものだ。

​ニーチェ『悦ばしき知識』

​われわれは、宇宙が無情で不条理だとか、あるいはその逆だとかいって蔭口をたたくのはやめにしよう! それは完全でもなければ、美しくも高貴でもないし、またそれらのどれひとつにもなろうなどとは露ほども欲していない。それは人間に倣おうなどとは皆目つとめてはいない! それはわれわれのどんな美的および道徳的な判断とも断じて相応ずるものではない!

​ニーチェ『悦ばしき知識』

もし諸君が、目的の何一つ存しないことを知るならば、諸君はまたいかなる偶然も存しないことを知るだろう。なぜといって、諸目的の世界があるところでのみ「偶然」という言葉も意味を有つからである。

​ニーチェ『悦ばしき知識』​

道徳性とは、個々人における群畜的本能のことである。

ニーチェ『悦ばしき知識』​

危険な決意。――世界をば厭うべき邪悪なものと見ようとするキリスト教的決意が、世界を厭うべき邪悪なものにしてしまった。

ニーチェ『悦ばしき知識』​

あまりにもユダヤ的。――神は愛の対象となろうと欲するなら、何よりまず審判と正義を断念せねばならぬことだろう。――審判者というものは、それが恵み深い審判者であったにしても、決して愛の対象とはならない。キリスト教の開祖は、この点にかけての繊細な感受性を充分に持ちあわせなかった――ユダヤ人だったゆえに。

ニーチェ『悦ばしき知識』​

​思想。――思想というものは、われわれの感覚の影である――感覚よりもつねに暗く、虚ろで、単純である。

ニーチェ『悦ばしき知識』​

思想家。――彼は思想家だ、という意味は、彼が事物を実際あるよりも単純に取ることに妙を得ているということだ。

ニーチェ『悦ばしき知識』​

笑い。――笑いというのは、良心の呵責もなしに他人の不幸を喜ぶことだ。

ニーチェ『悦ばしき知識』​

理想と素材。――君は、高貴な理想を眼前にしている。だが君は、実際のところ、そうした神々しい彫像に造り上げられるほどに高貴な石材であるだろうか? さもないとしたら――君の仕事という仕事はおしなべて粗暴な彫刻作業ではなかろうか? 君の理想の冒涜ではなかろうか?

ニーチェ『悦ばしき知識』​

原因と結果。――ひとは、結果以前には、結果以後のとは別な原因を信じているものだ。

ニーチェ『悦ばしき知識』​

罪。――魔女を裁く極めて炯眼な裁判官も、のみならず魔女自身ですらも、魔術を罪と思い込んでいたとはいえ、にもかかわらずそんな罪は存在しなかった。これと同様なことが、およそ罪といわれるすべてのものにあてはまる。

ニーチェ『悦ばしき知識』​

偶然を否定する者。――勝利者の誰ひとりとして偶然を信ずるものはいない。

ニーチェ『悦ばしき知識』​

究極の懐疑。――そもそも人間の真理とは究極のところ何なのだ? ――それは人間の論駁不可能な錯覚である。

ニーチェ『悦ばしき知識』​

体得された自由の印は何か? ――もはや自分自身を恥じないこと。

ニーチェ『悦ばしき知識』​

道徳的地球だって円い! 道徳的地球だってその対蹠人をもっている! 対蹠人らにだって生存の権利がある!

ニーチェ『悦ばしき知識』​

崇高さが残忍性と同棲しているようなところに崇高さを探し求めなくとも、崇高なものごとは山ほどある。

ニーチェ『悦ばしき知識』​

われわれの「我が道」というものはあまりにも苛酷で厄介なものであって、他人の愛や感謝の対象たるにはあまりにも程遠いものだ、――だからわれわれはむしろ好んでこのものから、「我が道」とわれわれの固有独特の良心から遁走し、そして他人の良心のもとへ、「同情の宗教」の可憐な寺院のなかへ、避難するのである。

ニーチェ『悦ばしき知識』​

生、自然、歴史が、〈非道徳的〉だとすれば、およそ道徳は何のためのものか?

ニーチェ『悦ばしき知識』​

首尾よく生きてゆくのに、どれほど多くの信仰を必要としているか、また、自分を支えてくれる揺らぐことのないような「確かなもの」を、どれほど多く必要としているか、――これこそはその人間の力量(あるいは、もっとはっきりと言えば、彼の弱さ)の、尺度である。

ニーチェ『悦ばしき知識』​

私は、人間の悪埒さや卑劣さが、要するにわれわれの内なる悪性の野獣が覆い装わるべきだなどと、思っているわけではない。むしろ逆に、私は、馴らされた動物としてのわれわれというものは見るも醜悪な代物であり、それだから道徳的変装を必要とするのだと考えている。

ニーチェ『悦ばしき知識』​

道徳的変装を必要とするのは、恐るべき猛獣ではなくて、やりきれない凡庸と不安とを抱え自分自身に退屈した群畜である。道徳はヨーロッパ人を飾り立てて――(白状しようではないか!)――彼らを一そう高貴なもの、卓越したもの、堂々たるもの、「神的なもの」に見せかけているのだ――。

ニーチェ『悦ばしき知識』​

われわれは認識のための、「真理」のための器官を、全く何ひとつ有っていない。われわれは、人間群畜や種属のために有用だとされるちょうどそれだけを「知る」(あるいは信ずる・あるいは妄想する)のである。しかも、ここで「有用」と呼ばれるものでさえも、所詮また一個の信仰、一個の妄想にすぎず、また恐らくそれこそは、われわれをいつかは破滅させるあの宿命的な蒙昧さであるかもしれない。

ニーチェ『悦ばしき知識』​

意識というものは単に表象の偶発現象にすぎないもので、その必然的な本質的属性ではない、従ってわれわれが意識と名づけているものは、われわれの精神的・霊的な世界の一状態(おそらくは病的状態)であるにすぎないもので、精神世界それ自体ではさらさらない。

ニーチェ『悦ばしき知識』​

自分自身に精神的人間を凌ぐ優越性の見せかけをこしらえたり、せめてなりと自分の空想の上ででも復讐を果たした悦びをつくりだしたりするのに、彼が必要とし・絶対に必要とするものの何であるかを、諸君はご存知だろうか? きまってそれは道徳性だ、賭けをしてもいい。

ニーチェ『悦ばしき知識』​

われわれは、樹木のごとく成長する――これこそは、すべての生と同じく、理解に困難なことなのだ! ――一つの場所においてなのではなく、いたる所において、一方向へではなく、上へも、外へも、また内へも、下へも成長する。――われわれの力は、同時に幹にも、枝にも、根にもはたらく。何か一つのことだけをやるとか、何か単一のものであるとかいうことは、もはやまったくわれわれには許されていない。

ニーチェ『悦ばしき知識』​

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