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ショーペンハウアー名言集

ショーペンハウアー(1788-1860)はドイツの哲学者。盲目的意志が世界の根源であり、人生は最悪の世界だとする厭世哲学を説いた。生前は不遇であったが、19世紀末のヨーロッパにおいてその独特な厭世思想は顧みられることになり、ニーチェらに影響を与えた。

 

 

哲学するために最初に求められる二つの要件は、第一に、心にかかるいかなる問いをも率直に問い出す勇気をもつということである。そして第二は、自明の理と思われるすべてのことを、あらためてはっきり意識し、そうすることによってそれを問題としてつかみ直すということである。
ショーペンハウエル『知性について』


哲学者の思想を研究するかわりに、彼の伝記を知ろうと思っている人は、絵画に眼をそそぐかわりに、その枠に気をとられて、その彫り方の趣味や金箔の値段などをつらつら考えている人のようなものである。
ショーペンハウエル『知性について』



天才は自分の誘惑にしかならないような同時代の人々よりも、むしろ後世に想いを向ける。
ショーペンハウエル『知性について』


われわれが自然に向かって苦情を言うときには、たいていわれわれの側に無理がある。
ショーペンハウエル『知性について』


あますところのない完全な形而上学的洞察は、われわれからあらゆる形而下的な生活営為の能力を奪い去り、おそらくはわれわれを――幽霊を目撃したひとのように――永久に身も凍る驚愕の中へおとしいれてしまうのではないか。
ショーペンハウエル『知性について』


われわれの生の目的は――あえて比喩的表現を用いれば――理論的なものではなく、実践的なものである。永遠性にあずかるのは、われわれの営為であって、われわれの認識ではない。
ショーペンハウエル『知性について』


われわれは事物を、それらがそれ自体においていかにあるかについてではなく、ただいかに現れるかについて認識するのみである。
ショーペンハウエル『知性について』


現象についての精確な知識は、もっとも広い意味における自然科学である。ところで、この表面がある内部を前提していて、これは単なる平面ではなく、立体的な中味をもっているであろうということは、その中味の推定とともに、形而上学のテーマである。
ショーペンハウエル『知性について』


ある出来事や事態が明瞭に理解できるものであればあるほど、それらはますます単なる現象に属するもので、本質的な存在自体にはかかわらないものである。
ショーペンハウエル『知性について』


いかなる動物も明らかに、餌をみつけて手に入れる目的のためだけに自分の知性を具えているので、当然、その知性の及ぶ範囲も限られている。この事情は、人間においても、ことならない。
ショーペンハウエル『知性について』

 


誰でも自分を一個の必然的な存在として理解すべきである。すなわち、それの真実で完全な定義が与えられるならば、そこからそれの現実存在があまずところなく帰結するような本質的存在として理解すべきである。
ショーペンハウエル『知性について』


学者とは書物を読破した人、思想家、天才とは人類の蒙をひらき、その前進を促す者で、世界という書物を直接読破した人のことである。
ショウペンハウエル『読書について』


我々自身の精神の中にもえいでる思想はいわば花盛りの春の花であり、それに比べれば他人の本から読みとった思想は石にその痕をとどめる太古の花のようなものである。
ショウペンハウエル『読書について』


本を手にする目的で、生き生きとした自らの思想を追放すれば、聖なる精神に対する叛逆罪である。そういう罪人は植物図鑑を見、銅版画の美しい風景をながめるために、広々とした自然から逃亡する者の姿に似ている。
ショウペンハウエル『読書について』



凡庸な書籍哲学者と自ら思索する者との関係は、歴史研究家と目撃者とのそれに等しい。
ショウペンハウエル『読書について』



精神が代用品になれて事柄そのものの忘却に陥るのを防ぎ、すでに他人の踏み固めた道になれきって、その思索のあとを追うあまり、自らの思索の道から遠ざかるのを防ぐためには、多読を慎むべきである。かりにも読書のために、現実の世界に対する注視を避けるようなことがあってはならない。
ショウペンハウエル『読書について』


読書と同じように単なる経験もあまり思索の補いにはなりえない。単なる経験と思索の関係は、食べることと消化し同化することの関係に等しい。経験がもし、いろいろなことを発見して人知を促進したのは自分だけであると大言壮語するならば、肉体を維持しているのは自分だけの仕事であると口が高言しようとするようなものである。
ショウペンハウエル『読書について』



真の思索者は君主に類似している。彼はだれの力も借りず独立の地位を保ち、自らの上に立つ者はいかなる者も認めない。その判断は君主が決定する場合のように自らの絶対的権力から下され、自分自身にその根拠をもつ。すなわち君主が他人の命令を承認しないように、思索者は権威を認めず、自分で真なることを確かめたこと以外は承認しないのである。
ショウペンハウエル『読書について』



心に思想をいだいていることと胸に恋人をいだいていることは同じようなものである。我々は感激興奮のあまり、この思想を忘れることは決してあるまい、この恋人がつれなくなることはありえないと考える。しかし去る者は日々に疎しである。もっとも美しい思想でも、書きとどめておかなければ完全に忘れられて再現不能となるおそれがあり、最愛の恋人も結婚によってつなぎとめなければ、我々を避けてゆくえも知れず遠ざかる危険がある。
ショウペンハウエル『読書について』



一般に思想家を、第一に自分のために思索する者と、いきなり他人のために思索する者との二つに分類することができるが、第一のタイプに入る人々が真の思想家であり、(中略)第二のタイプの思想家はソフィストである。彼らは世間から思想家であると思われることを念願し、かくして世人から得ようと望むもの、つまり名声の中に幸福を求める。その真剣な努力はこのように他人本位である。
ショウペンハウエル『読書について』

 


我々の存在、この曖昧な、苦悩にみちた存在、このつかのまの夢にも似た存在は、はなはだ重要なさし迫った問題で、一度この問題にめざめると、他の問題や目的はすべてその影におおい隠されるほどである。だがわずかの例外をのぞけば、すべての人々はこの問題に対して明白な意識を持たず、それどころかまったくこの問題に気づいていないようで、これとはまったく違った問題に心をくだき、ただ今日という日や、自分の一身につながる明日という同じくつかのまの時にのみ気をくばりながら、無為の日々を送っている。
ショウペンハウエル『読書について』


他の動物と同じように、貧弱な動物であることが人間の実際の姿で、その力はその生命をささえていくためにのみ工夫されている。
ショウペンハウエル『読書について』


最近の発言でありさえすれば、常により正しく、後から書かれたものならば、いかなるものでも前に書かれたものを改善しており、いかなる変更も必ず進歩であると信ずることほど大きな誤りはない。
ショウペンハウエル『読書について』



一つの思想の真の生命は、思想がまさに言葉になろうとする地点に達するまで持続するにすぎない。その地点で思想は石と化し、その後は生命を失う。だが化石した太古の動植物のようにその思想は荒廃を免れる。
ショウペンハウエル『読書について』


ペンと思索の関係は杖と歩行の関係に近い。しかし足どりも軽い完全な歩行には杖は無用であり、完璧な思索はペンをかりずにはかどる。老いが身に迫り始めてようやく、人はすすんで杖にすがり、ペンにたよる。
ショウペンハウエル『読書について』



慇懃丁重な物腰や態度は普通の社会から生まれたもので、一般に文学の世界では異質の要素であって、有害な要素となるばあいが非常に多い。なぜならば、悪を善と称して学芸の目的を真っ向から阻むことが丁重主義の要求だからである。
ショウペンハウエル『読書について』



ある精神的作品、つまり著作を一応評価するためには、その著者が何について、何を考えたかを知るには及ばない。そういうことになると、その人の全著作をことごとく読み通す必要がでてくるかもしれない。そういう大変な仕事にとりかからなくても、さしあたって、彼がどのように思索したかを知るだけで充分である。
ショウペンハウエル『読書について』


文体は美しさを思想から得る。似而非思想家の場合のように、思想を文体によって美しく飾ろうとしてはならない。文体とは所詮、思想の影絵にすぎないからである。
ショウペンハウエル『読書について』


大切なのは普通の語で非凡なことを言うことである。
ショウペンハウエル『読書について』



思想というものは、頭から紙に向かうのは容易であるが、逆に紙から頭へ向かうのは大変なことで、その場合には手持ちのあらゆる手段に助けを求めなければならない。
ショウペンハウエル『読書について』



怒りを欠く者は知性を欠く。知性は必ずある種の「鋭さ」を生む。
ショウペンハウエル『読書について』


ヘロドトスによると、ペルシアの大王クセルクセスは、雲霞のような大軍をながめながら涙した。百年後には、この全軍のだれ一人として生き残ってはいまいと思ったからである。分厚い図書目録をながめながら泣きたい気持に襲われない者がいるだろうか。だれでも、十年たてば、この中の一冊も生き残ってはいまいという思いにうたれるはずである。
ショウペンハウエル『読書について』


良書を読むための条件は、悪書を読まぬことである。人生は短く、時間と力には限りがあるからである。
ショウペンハウエル『読書について』


読み終えたことをいっさい忘れまいと思うのは、食べたものをいっさい、体内にとどめたいと願うようなものである。
ショウペンハウエル『読書について』



後世名声を博する者の多くは、同時代の者から迎えられないという憂目に会い、逆に今の世に迎えられる者の多くは、後世に無視される。
ショウペンハウエル『読書について』


真理というものは、長い間には、結局それの純粋な形においてのみ存続しうるものである。誤謬とまぜあわされると、真理も誤謬のはかなさを身にうけることになる。ちょうど花崗岩が、たとい石英や雲母には風化の気づかいはないとはいっても、長石が風化されてしまうと、砕けるようなものである。
ショウペンハウエル『自殺について』


「世界はわが表象である」という私の第一命題からして、さしあたり次の帰結が出てくる、――「最初にあるのは我で、それから世界があるのだ。」
ショウペンハウエル『自殺について』


現在――これこそが、最狭義における、一切の実在性の唯一の形式である――はその源泉を我々のうちにもっているもので、したがってそれは外からではなしに内から湧き出てくるものであるということに気づいているような人であるならば、彼自身の本質の不滅性に疑いをさしはさむということはありえない。
ショウペンハウエル『自殺について』



死は我々にとって全く新しい見慣れぬ状態への移行と看做さるべきものではなく、むしろそれはもともと我々自身のものであった根源的状態への復帰にほかならぬものと考えらるべきなのである。
ショウペンハウエル『自殺について』


知性は単に形而下的性質のものであり、またそれにふさわしく過ぎ去り易いものであるが、意志は形而上的に存続する。
ショウペンハウエル『自殺について』



我々にとって死はどこまでも否定的なものである、――即ち生の終焉である。しかし死にはまた積極的な面もなければならないはずであるが、この面は我々には隠されたままになっている。何故なら我々の知性にはこの面を把捉しうる能力が全然欠けているからである。それ故に我々は死によって失うところのものはよく認識するのであるが、それによって獲るところのものについては知らないのである。
ショウペンハウエル『自殺について』



死に際してひとは自分の個性をあたかも古い着物を脱ぎ棄てるように棄て去るべきであろう。そうしていま、蒙をひらかれて、それの代わりに新しいもっと立派なものを受取ることに喜びを感ずるべきであろう。
ショウペンハウエル『自殺について』


「『僕は、僕は、僕は生きたい』と君は叫ぶけれども、そんな風に叫んでいるのはなにも君だけではないのだ。むしろすべてのものが、意識のほんのかすかな影だけでももちあわしているものであれば、文字通りにすべてのものが、そう叫んでいるのだ。だからしてそのような願望は、これこそ個人的なものなのではなしに、何らの差別なしに万有に共通のものだということになる。それは個性から生れてくるものなのではなく、現存在一般から生れてくるものであり、現に存在しているすべてのものの本質をなしているのだ」
ショウペンハウエル『自殺について』


個性というものは決して完全性なのではなしに、むしろ一種の制限である。
ショウペンハウエル『自殺について』


時間と、時間のうちなるまた時間のゆえの万物のはかなさとは、それによって、生きんとする意志――これは物自体として不滅のものである――に対してその努力の虚無性があらわにせられるゆえんの、形式にほかならない。
ショウペンハウエル『自殺について』


現在を享楽すること、そしてそういう享楽を人生の目的とすること、これが最高の智慧である。何故なら、まことに現在だけが実在的なものなので、他の一切は虚妄にすぎないのだから。けれどもひとびとはまた同じようにそれを最高の愚鈍と名づけることもできよう。何故なら、すぐその次の瞬間にはもはやなくなってしまうようなもの、あたかも夢のようにあとかたもなく消え去ってしまうようなもの、は断じて真剣な努力に価いしないものなのだから。
ショウペンハウエル『自殺について』



我々の現存在は、かなたへと消えてゆく現在以外には、それへと足をふみしめるべき何らの基底をも基盤をももってはいない。それ故にそれは本質的には不断の運動をおのが形式としてもっているので、我々が絶えず希求している安静の可能性はそこにはない。
ショウペンハウエル『自殺について』



動物と人間の世界にかくも大袈裟で複雑で休みのない運動を惹き起しかつはそれを廻転し続けているゆえんのものが、飢餓と性欲という二つの単純なばね仕掛であろうとは、まことに驚嘆のほかはない。尤もほかになお退屈というやつが少しばかりこの二者のお手伝いをしているのではあるが、いずれにしてもこれらのものが、多彩な人形芝居を操るかくも精巧な機械の原動力の提供者として結構間にあっているという次第なのだ。
ショウペンハウエル『自殺について』



有機的なものの存在は、物質の絶えざる新陳代謝によってのみ可能とせられている。そうしてこの新陳代謝のためには、不断の流入が、したがってまた外からの補給が、必要なのである。してみれば、すでにそれ自身において、有機的生命なるものは、手上に均衡を保つために絶えず動かされていなければならない竿のようなものであろう。だからしてそれは絶えざる欲求なのであり、とめどもなく繰りかえされる欠乏なのであり、果て知らぬ困窮なのである。
ショウペンハウエル『自殺について』



我々の人生の場景は粗いモザイックの絵に似ている。この絵を美しいと見るためには、それから遠く離れている必要があるので、間近にいてはそれは何の印象をも与えない。それと同じ道理で、何かしら憧れていたものを手にいれることは、それを空しいと覚ることである。
ショウペンハウエル『自殺について』



もしも我々のこの現存在が宇宙の究極目的なんかだったとしたら、そういう目的をうちたてたものが我々自身だったにしろ乃至は或る他者であったにしろ、これほど愚かしい目的は開闢以来未だかつてうちたてられたことはなかったと言ってもよかろう。
ショウペンハウエル『自殺について』



もしも、生命というものが――生命への渇望が我々の本質と現存在をかたちづくっているのだ――何らか積極的な価値と実在的な内容をそれ自身のうちに含んでいるものだとしたら、退屈などが断じてありえようはずはない。むしろ単なる現存在が、それだけで、我々を充実し満足させるに違いないのだ。
ショウペンハウエル『自殺について』


我々のうちには奇異なものを捉えようとする好奇心がぬきがたいまでに根強くひそんでいるが、これなども、余りにも退屈な事物の経過の自然的秩序の中断を如何に熱烈に我々が見たがっているかを、物語っている。
ショウペンハウエル『自殺について』


とかくひとびとが、過去においてあれやこれやの幸福乃至享楽への機会を利用せずにのがしてしまったことを、悔やんだり歎いたりしているのは、何と愚かしいことであろうか。かりにその機会をつかんだとしても。一体何がそれだけ余計残っているというのであろう。回想のひからびたみいらである。さて、実際に我々に与えられたすべてのものについても、事情は同様である。
ショウペンハウエル『自殺について』


困窮がやむとすぐに退屈が現われる――動物でさえも少し利口なものは退屈に襲われる――ということは、人生は何ら真実の純粋な内容をもってはいないので、ただ欲求と幻影によって動かれているだけだということからの、ひとつの帰結である。だからこの動きが止まったら最後、すぐに現存在の味気なさと空虚さが表に現われてくるのである。
ショウペンハウエル『自殺について』


この世界では快楽は苦痛よりも多いとか乃至は両者は少なくとも互いに平衡を保っているとかいうような主張を簡単に吟味しようと思うならば、或る他の動物を貪りくっている動物の感覚と、貪りくわれている動物の感覚とを比較してみられるがいい。
ショウペンハウエル『自殺について』


誰でもが、しっかりとまっすぐに進むことができるためには、あたかも船が底荷を必要とするように、或る程度の心労乃至苦痛乃至困窮が必要なのである。
ショウペンハウエル『自殺について』


人生は労苦して果さるべき課役である。
ショウペンハウエル『自殺について』


重苦しい怖ろしい夢のなかで不安が最高頂に達したその瞬間に、ほかならぬこの不安それ自身が我々を目覚めさせてくれる、――かくして夜のかの一切の魑魅魍魎は退散する。それと同じことが人生の夢のなかでも起るのである、――不安の最高頂が我々にこの夢を破ることを強いる時に。
ショウペンハウエル『自殺について』


幸福な人生などというものは不可能である。人間の到達しうる最高のものは、英雄的な生涯である。
ショウペンハウエル『自殺について』

 

 

徳というものが、教えられて学び得るものでないことは、天賦の才能が教えられて学び得るものでないことと同じである。(中略)われわれの道徳説や倫理学でもって、有徳の士、高貴の士、聖人君子をつくり出そうと期待するようなことは、美学でもって詩人、画家、音楽家をつくり出そうと期待するのと同じくらいに愚劣なことであろう。
ショーペンハウアー『意志と表象としての世界』

自分の弱点を思い知らされることは、おそらく最大の精神的苦痛の原因となる屈辱である。おのれの無能をありありと見せつけられるよりも、おのれの不運を見せつけられる方がはるかに我慢しやすいのはこのためである。
ショーペンハウアー『意志と表象としての世界』

他人の特性や特徴を猿真似するのは、他人の衣裳を着用に及ぶよりももっと恥ずべきことなのだ。それは自分が無価値でございますという判断を、自分の口から言い出すようなことだからである。
ショーペンハウアー『意志と表象としての世界』

自分自身に対する不満とは、自分の個性をわきまえず、誤った自負をいだき、そこから思い上がった気持が生じたことの当然の帰結である。

ショーペンハウアー『意志と表象としての世界』

努力というものはすべて不足から生じるのであり、自分の置かれている状態に対する不満足から生じるものなのであって、したがって努力が満足されない限り、すべての努力は苦悩である。しかるに満足は永つづきするものではない。それどころか満足はつねに新しい努力の起点であるにすぎない。努力がいたるところで幾重にも阻止され、いたるところで戦闘しているさまをわれわれは目撃する。かくて、そのかぎりでは努力はつねに苦悩である。努力の究極の目標というものはなく、それゆえ苦悩にも限度や目標というものがない。

ショーペンハウアー『意志と表象としての世界』

苦痛そのものは人生の本質をなすものであるし避けようのないものなのであり、苦痛の単なる形態にすぎないものだけが、すなわち苦痛が姿を現すときの形式だけが偶然に左右されるのにすぎない。

ショーペンハウアー『意志と表象としての世界』
 

​いよいよすべてに打ち克って目的に達したとしても、それで手に入れることといえば、たかだかなにかの苦悩や願望から解放されたということ以外のなにごとでもあり得ない。ということは、苦悩や願望が出現してくる前の状態に戻ったというだけのことなのである。

ショーペンハウアー『意志と表象としての世界』

誰でも内心の満足が得られなくなってくるにつれて、他人の思惑のなかで、あなたは幸せに恵まれた人だと思われたいと欲する気持がますますつのる。愚劣も極まればここまでくるのだ。そして他人の思惑が万人の努力の主目標だといっていい。もっとも他人の思惑というようなこの目標がまったく空しいものであることは、ほとんどすべての国語において虚栄とはがんらい空と無とを意味しているということによってもすでに言い表されている。

ショーペンハウアー『意志と表象としての世界』

もしも全体として人間に値うちがなにほどかあるのだとしたら、人間の運命が全体としてこれほど悲しいものにはならないですむはずだろう。この意味でわれわれは、世界そのものが世界の審判者だと語り得る。もしも世界のありとあらゆる悲惨を天秤皿の一方にのせて、世界のありとあらゆる罪悪をもう一方の皿にのせることができるとしたら、秤の針は確実に平衡を保つであろう。

ショーペンハウアー『意志と表象としての世界』

わたしはカントにまっこうから反対してこう言おう。単なる概念などは、本当の徳にとっては本当の芸術にとってと同じように不毛である。あらゆる真実の純粋な愛は同情なのであって、同情にあらざるいかなる愛も自己愛なのだ、と。

ショーペンハウアー『意志と表象としての世界』

わたしの考えでは、人間は苦痛を感じたからといってけっしてすぐに泣くものではない。つねに反省することにおいて苦痛を反復しているうちにはじめて泣き出すのである。

ショーペンハウアー『意志と表象としての世界』

この現世からわれわれがかすめ取った願望の実現などは、しょせん乞食に今日の命をつなぐためにくれてやる施し物にも似ていて、乞食は明日はまたしても飢えてしまうかもしれないのだ。

ショーペンハウアー『意志と表象としての世界』

すべての苦悩には禁欲ならびに諦念への要請があるので人を神聖にする力が可能性としてそなわっている。

ショーペンハウアー『意志と表象としての世界』

われわれの現存在の背後には、それとは違ったなにかが潜んでいる。われわれがそれに近づきうるためには、まずわれわれがこの世界を振り落としてしまわなければならないのだ。

ショーペンハウアー『意志と表象としての世界』

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